■ARTIFACT@ハテナ系「空気を読む文科省には、非専門家の安易な教育論は無視しろと言えばいい」
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20081118/education
先日、加野瀬未友さんが「ARTIFACT@ハテナ系」に記したエントリ「『日本語が亡びるとき』を読まずに騒動だけ見た感想」が、いらぬ誤解を招いたようなので、訂正しよう、というのが↑のエントリ。「『日本語が亡びるとき』を読まずに~」に書いた、
基本的に非教育分野の人が「教育で○○すべし」という教育論系の書籍はトンデモまじっていること多いんで、まず読まない。書籍だけではなく、そういう教育論をやたらとぶつ人は、大体ロクでもないんで、いいフィルタリングになってる。
というテキストが「非教育分野の人間は教育を語るな!」と言っているように取られてしまって困った、と加野瀬さんは言う。ボクも「『日本語が亡びるとき』を読まずに~」を読み、
なんで異分野・異業種の人ですらみんなが教育論をぶちたがるのか、について書いてみた。そして、冒頭のリンク先ではその引用をしていただいている。しかも、
■狐の王国「空気読み国家の国民は「日本語が亡びるとき」をやっぱり読んでおけ」
http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20081115/1226775142
加野瀬さんにツッコミを入れた「狐の王国」には、以下のような一文がある。
とにかく教育は誰でも経験してるから簡単に語りがちだなんていって遠慮してる場合じゃない。
加野瀬さんは「教育は誰でも経験してるから簡単に語りがちだ」なんて、ひと言も言っていない。言ったのはボクだ。というわけで、勝手に当事者を気取ってコメントさせていただこう。
冒頭リンク先の引用箇所や、拙ブログの先日のエントリをお読みいただければわかるが、ボクはやたらと威勢のいいことを書いている。ざっくり言ってしまえば「オレ的教育論を語る人の一部はオナニーをしたいだけ」。我がことながらヒドいことを言う人もいたもんだ。
自己処罰はさておき、オナニーなんて書いてはみたものの、別に誰もが活発に教育談義をすること自体は否定しない。むしろ望ましいことだ。加野瀬さんは、
「非専門家の安易な教育論には価値がないと考えているので、自分としては耳を傾ける必要を感じていない」「安易な教育論を語る人間を自分は評価しない」というものだ。教育論を語りたい人にはどんどん語って欲しい。個人のフィルタリングが簡単にできるので、自分としては助かるから。
なんて少し意地悪な言い方をしているが、他人をオナニスト呼ばわりするボクですら「教育論を語りたい人にはどんどん語って欲しい」については大いに同意したい。「素人だからなどと尻込みしていると、大声を張り上げるバカの珍論奇論がまかり通る。みんな、もっと声を上げるべき」と語る「狐の王国」にも、もちろん賛成だ。
学校を揶揄する言葉に「学校の世間知らず」というものがある。学校、保護者、そして社会が「先生を国の宝たる子どもを育てる『聖職』、学校をその子どもが集まる『聖域』」というアンタッチャブルな存在に仕立てたばっかりに、先生や学校の価値観が世間様とちょいとズレちゃあいませんか? というお話だ。
「営業的性格を持たない仕事だから交渉ごとや謝罪が極端に苦手で、経済活動をしないからおカネが絡んだトラブルの処理がヘタ」なんていうのが「学校の世間知らず」派の主な意見。また、個人的には、ジャージで教壇に立つ先生もどうかと思う。チョークで服が汚れるのがイヤなのはわかるけど、体育の先生でもない限り、スーツを着ようよ。子どもの服装検査をするご身分なんだからさぁ。それ以前に地方公務員なんだし。
かようにツッコミどころの多い先生と学校ではあるが、先生とて、いや、先生だからこそバカじゃあない。自分たちと世間様がどこかズレていることは十分承知しているのだ。ただ、先生に限らず、自分は他人と「どこがズレているのか」なんて簡単に自己認識できはしない。だから、拙著『凶暴両親』の取材時、お話をうかがった先生の多くは、学校にクレームが寄せられること自体は「当然のこと」と受け止めている。むしろ、自分では気づきにくいから「お前ズレてるよ」とツッコんでほしいとすら希望する。
「狐の王国」では「空気を読むこと」についてネガティブに語られるが、自らに「世間知らず」という弱点があることを知っているからこそ、先生や学校、文科省は「空気を読みたい」と望んでいる。ならば、プロアマ問わず、大いに教育について語るべきだ。そして、世間の空気を教えてやるべきなだろう。
ただ、門外漢の語る教育論の多くがボクには陳腐に映ってしかたがないのは事実。オナニーなら隠れたところでやってくれ。
門外漢とて議論はすべきだが、その主張はたいてい安く見える。このジレンマを解消するには、単純に口の利き方に注意すればいい。上記引用の加野瀬さんの言葉のように、ド素人が考えなしに「○○すべし」と断言してしまうから、それを聞かされる先生はおろか、ボクらですら「バカじゃねぇの」と閉口したくなってしまう。本やブログを書く人ならいざ知らず、保護者会の席上の父母ですら、会話の初手から強い調子で言い切っちゃうのはどうしてだろう。無知のまま大声でトンデモを叫ぶバカは、最悪「モンスターペアレント」なる、名誉毀損以外のなにものでもないレッテルをちょうだいすることになるにも関わらず、だ。
結局、どうすればいいのか。
疑問文に置き換えりゃあいいのだ。「体罰を容認すべし!」「授業時数を増やすべし!」と言うから、聞く気が失せる。
「オレが子どものころは、しょっちゅう先生にゲンコツもらってたもんだけど、最近は『子どものジンケンをソンチョー』とやらで殴っちゃいけなくなったんスか?」
「先生、ニュースなんかで『ゆとり教育は子どもをバカにする』なんて言ってますけど、あれ、マジっすか? マジならチョーおっかないんですけど」
と尋ねることはできないのだろうか。この言い回しなら当たり障りがないし、まず無視もされない。聞かれた先生は、なにかしらの回答を返してくれるはずだ。しかも、素朴な疑問とも受け取られまい。回答者である先生は「ああ、この人は体罰をアリだと思ってるな」「ゆとり教育にあまりいいイメージを持っていないな」と、裏に潜む質問者の意図、主張を察してくれるはずだ。そして、きっと、体罰の是非について、ゆとり教育の成否について、プロという立場から意見してくれる。もしも、それが世間からあまりにズレた「空気の読めていない」意見だったなら反論すればいい。そんな手順を踏んだって、遅きに失することはないはずだ。
教育について、ひいては政治や社会について、みんながアレコレ考えて、議論することが無益なわけがない。ただ言い方ってもんがあるだろう。
これがボクの結論だ。そして、その言い方について書かれた1冊をボクはスゲー知っている。下のアマゾンリンクがそれだ。そう、ここまでダラダラ書いてきたことは、すべて拙著の宣伝だ。売文屋のはしくれである以上、たとえ己のブログに書き殴った駄文とてカネに替えさせていただきますが、なにか?
ついでにもうひとつ。先生や学校、文科省は、けっしてバカの大声に押し流されたりはしない。むしろ、十分に「空気を読んで」議論を重ねている。
「狐の王国」の外国語教育のくだりを例に出すなら、教育再生会議を発足したりと、教育施策にやたらと熱心だった安倍総理は、当時「小学校でも外国語教育をすべし」と、いかにもなオレ節教育論をブチ上げた。ところが、その右腕たる伊吹文科大臣は「美しい日本語を操ることすらおぼつかない小学生に外国語なんて教えても混乱するだけ。安易に『外国語、外国語』言うな」と、子どもの発達段階を踏まえた上で、これをバッサリ斬り捨てた。そして、その後、議論を経てから、ようやく今年3月告示の新学習指導要領において、はじめて小学校での外国語教育が必修と相成っている(実際の運用は来年度からなので、小学校での外国語教育の是非については、今はさておく)。
また「空いた時間を国語に突っ込んで、とにかく読解力と国語で書く力を上げさせる」との見解についてだが、新指導要領には「小学校1~5年生において国語の授業時数を増やすべし」とある。狐の王国の管理人氏のような理知的な人々の意見や主張は、ちゃんと文科省に届いているのだ。